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鳥取県「因幡元祖傘踊り」の由来

鳥取県の代表的な伝統芸能のひとつに「因幡の傘踊り」がある。
傘おどりは、雨乞いから始まったと言われ、最も盛んに踊られたのは、初盆を迎えた精霊の供養や盆踊り大会であった。
 江戸時代(1803 年頃)には神仏への祈願が主で、すべてを神仏に頼り各地で祈祷が執り行われ五穀豊穣の干ばつ対策として、雨乞い祈願がなされこの地域においても国府川の堰を切って下流に水を流す「通し水」が行われていた。
 人々の生活様式は、各部落とも神事を中心とし娯楽の少ない農村にとっては盆の踊りは唯一の楽しみであった。踊りの中には中世から戦国時代に始まったという物もいくつかあるが、多くの盆おどりの始まりはこの時代と考えてよいであろう。


「因幡元祖傘踊り、発祥の地高岡の傘踊り」

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因幡の傘おどりをいち早く完成させたのは山本徳次郎氏である。
 鳥取県法美村 高岡村(鳥取市国府町高岡)の傘おどりは、明治28〜9年頃 徳次郎が16〜7才の頃に考案したと言われている。 傘おどりの指導を受けた高岡村の山本重義氏(明治40年生れ)によれば、徳次郎が毎日々夜中まで番傘を振り回し踊りの工夫する姿を見て、家族は頭がおかしくなったと心配する程であったようだ。
 また、傘を何本も壊しては、自分で修理し、新たな傘を考案して、苦心の末傘おどりを完成させたと聞いており、徳次郎氏が傘おどりを完成させるまで、このような踊りはなかったと話されています。


因幡地方の傘踊りにまつわる伝説

江戸時代末期、因幡地方は空前の干ばつに見舞われ村人たちは天を仰いで雨を待ちなすすべもなく苦しい日々を送っていた。
 老農夫 五郎作は、これを見てこの窮状を救うためには、天の神に祈るしかないと思い、そこで、冠笠を手にして、村人の悲願を一身に込めて三日三晩狂ったように踊りまくった。この、雨乞いおどりの至誠が天に通じ、満願の夜半から大粒の雨が沛然と降り始めた。村人は、餓鬼を逃れて狂喜した。
 しかし、こうして村を救った五郎作は、おどりつかれ病に倒れ帰らぬ人となり、村人は一様に天を仰いで悲しみ、この年の盆皆が広場に集まり笠おどりをして五郎作の霊を慰めた。と言う、昔からの伝説が残されている。


因幡元祖傘踊り、発祥の地高岡の傘踊りにまつわる実伝

因幡地方は、昔から度々干ばつに苦しめられ、雨乞いの祈りや踊りが、その都度行われていたが、 これがいつの間にか夏祭りの年中行事となっていた。
 おどりと言っても、最初は雨笠をもって踊る素朴なものであり、これを長柄の傘に変え、剣舞をの型を取り入れて「因幡の傘踊り」を完成させたのは、鳥取市国府町高岡の「山本徳次郎」である。
 当時、徳次郎は若者の間で「かしら」として、情熱をもって青年の指導にあたっていたが、志と違い徳次郎の真心が青年たちに通じなかった。

                        
 この頃、この地方に「賭博」が流行し、若者の中には賭博に熱中する者が多く現れ徳次郎は、これを何とかして、健全な娯楽に向かわせようと日夜、頭を抱えているうちに、 ふと、夏祭りに行われている雨乞い踊りに思いをはせ、これだと思い至った
 早速、祖母に、雨乞い踊りをして実際に雨が降ったことがあるかと尋ねると、「うーん 一度な・・・」踊っている最中に、雨が降り出したので高岡神社(牛頭天王) の神主さんが、嬉しさのあまり笠を振って踊ったことがあった。と聞き徳次郎は目を輝かせ、はたと膝を打ち踊りを磨き、誠心折れば天に通じる、踊りに打ち込むことで村や若者も救え 、おどりの中に若い純情を燃焼させる事が出来る。「よし、これだ・・・」
 これ以来、徳次郎は門を閉じて、おどりの傘の製作に没頭し、竹を割り、骨を組み、長柄を取り付け、紙を貼って形が出来ると、これを振り回したので、家の人は徳次郎が狂人になった顔色を変えたという。

 徳次郎は剣舞のたしなみもあったので、舞に振取り入れ勇壮活発なものとし、舞を統一し「ひらかなに乗せる」ことも考案、「おどれ、おどれ みなおどれ」の文字をこしらへ傘で書いていくのである。 高低落差の変化をつけるため「鶴・亀」の姿態を取り入れ、鶴は高い姿勢、亀は低い姿勢とし長柄の傘を開いて前後高低、気合とともに切り込みながら「ひらかな」を書いていき 思考練磨、独習反復、何日も何日も部屋にこもり傘を振り続けた。やがて自得の微笑みを浮かべ、「出来た・・・」踊りの基本の完成である。

   

 まず、家族に傘おどりを披露し、村の青年たちを集めて、、瞭然と長柄の傘を突き立てて発想の動機を述べてから傘を開いて踊ってみせ、小気味よい鈴の音に乗って長柄の傘が、縦横無尽に大気を切り、 青年たちはそれを見て興奮し驚愕した。「村の為、天の神に向かって雨を乞う」という大義がありその発想が若者に純粋に快く受け入られた。

勇壮闊達な傘踊りの流れが、純真な若者の血潮をたぎらせ、たちまち村の活力となり若者たちが徳次郎の周りに集まり長柄の傘作りと踊りの修練に没入し、 やがて、徳次郎を中心に高岡村傘おどりの団体も発足、服装も整えられ村の氏神「牛頭天王」に傘踊りを奉納し「因幡元祖傘踊り高岡牛頭天王」の幟を拝領する。 高岡村の傘踊りは、村内だけでなく近隣の村に出かけて踊り、幟がはためくようになった。





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